J 「心一つですべてを創る。本教と他宗教との違い。神愛。」

昭和五十七年三月二日 朝の御理解

x御神訓 信心の心得 「わが心でわが身を救い助けよ」


 心一つですべてを創ると、だから心一つで又、すべてを壊すという事にもまあ言えるというように、ま、合楽理念では説きます。
 その心一つが助かるという事。その心一つが助かるという事は、今日の御理解にわが身はわが心で救い助けよとあります、ね。自分の心一つで自分を助ける事が出来る 本当な事がだんだんわかってくる。次の御教えに、信心する人は何事にも真心になれよ、とありますね。その次に、ね、真心という事は本当の心、ね。だから、本当の心をもってすると、本当な事がわかる。本当な事がわかるから今迄ね、自分の心のま一つの貸し借りというかねそういう苦しんでおった事の中にも、あ-これは苦しむ事じゃなかった。御礼を申しあげる事であったと、真心をもって、真の心をもってするとそれがわかってくるんです。
 だから、どうしてもその信心の道、いわゆる真心の道を極めていくという事になるのです。先だってから此処で、海外布教に出られる先生方が外語の勉強を思いたっております。先だってから此処の、安武先生の、英語の先生です、そのお知り合いで、アメリカの方で何とか大学でやっぱり英語の教授をしておられる。
 まだ若いですけど、まだ日本に見えて四年位にしかならないという話ですけど、なかなか、その日本通の方なんで、話を聞きますとお家は熱心な御両親はクリスチャンだそうです。どうもクリスチャンに飽き足らずに仏教の研究をはじめられた。
 先ずあの禅の道というか禅宗の研究をなさった。いうならば、キリスト教でいう、まあ、罪というでしょうかね。この罪の意識があるという事は、もう、今日の言葉で言うと助かりようがないですね。自分は罪深いと思っただけで助かるはずがありませんよね。それをどうでもこうでも、罪深いとまあ、そこにこじつけてあるような感じがしますね。キリスト教の原罪なんかというような、罪の事になってきたら、だから人間はもう罪深いもんだとこう決めてある。そういう信心に、疑問を感じられて仏教に救いを求められた。
 ところが仏教では、又、因縁とか輪廻かという事になったら、いよいよ仏教では助からない事がわかってきた。それで最近では何か難しい世界の新興宗教でしょうね。バファイ教の研究、この方は四十年間もその変わった事を言うというので、牢獄につながれた方で、もう、その方は亡くなっておられるとでしょ、というその人の、まあ言われる事がもっとも正しいというふうに感じられるようになって、その宗教の、まおかげを頂かれた。
 第一ね、教祖宗祖があられもない修行をするというけども、キリストのようにはりつけにどんなるような事じゃつまらんとですよねえ。
 例えば、その、バファイ教ならバファイ教が四十年間も監獄の中につながれる、それはね、まあ、過去の宗教は申しましたね。それが修行のようなふうに言ってまいりましたね。
 教祖金光大神の場合はどんなだったか、どんな場合であっても、「喜び一つで開けた道だから、もう、喜びに喜んでという心になればおかげになる」というのが教祖金光大神の信心の芯だと思います。おかげは和賀心にありという。
 だからその和賀心一つを何事にも真心になれよとこう、真心になれよとこうおっしゃる。その真心のね、いうならば、もう追求ですけれども、その真心というものは誰でも持ってるんです。本当の心というのは。
 だから、人間が持っておるその心、そのものが真心なんです。その心一つで今迄はこれは因縁である輪廻である。これは罪だ原罪だというふうに思って、まあ、きた向きが、なら、金光教でもあるわけです。それをめぐりとこう言うのです。
 この難儀はめぐりのせいだと。ところが合楽理念によって、勉強さしてもらうと、めぐりそのものも神愛だという事がわかってくるでしょう、ね。
 ここではめぐりのお知らせを蛇のお知らせなんかで、めぐりの深いていうふうに頂くんですけども、もう、これは三十年も前の事でしたけれど、その、蛇のお知らせを頂いた。お,これはめぐりが出てくるなあと思ったらその蛇が、も、運動会の時に引きますあの、ぼんづなのようなね、あの、ああいう綱に変わっていく。zr『蛇が綱に変わっていくところ』を頂いたんです。めぐり、というのは人間氏子にいよいよ、俗に、俗にというか一般に申しますねえ、艱難汝を玉にす、といったような、ね、教祖の御教えは例えば、その艱難そのものが、難儀、そのものが、ね、神愛である。それを、めぐり、というふうに説く場合もあるけれども、そのめぐりのおかげで艱難心、自分の心が玉になるようなおかげを頂く。
 後で考えてみると、あれは神愛だったなあという事がわかりますから、だんだん体験を積んでいくうちにそこに難と感じておったその難がこれが神愛であるとわかる。 そういう心次第がです、いわゆるすべてを、ね、心一つで全てを創るという事になるのです。自分のような悪人、自分のような罪深い者、自分のように因縁の深い者で自分という者を決めつけてしまうから、やはり、ね、
 だから、キリスト教の宣教師なんかは、やっぱりキリスト教を神習うわけですね。そういう難儀の中にね。それを普通のように、確かにそうですよ。やっぱ教祖宗祖の信心というものが、その信心をする人達の上にも同じような表れが表れてくる。
 だから、教祖金光大神のものは、もう、それこそ無学でも人が助かっておるというように、自分の心がもう、喜びに満ちてくる。溢れてくるその心だけを求めていくのである。そして、そこに難儀がある、めぐりのせいとだけにせずに、そのめぐりそのものも、私をいわゆる艱難汝を玉にさして下さる神様の働きなのだとわかってくる。 いわゆる一つの悟り。金光教の悟りはそれなんです、ね。ですから、なら、苦しいです、夕べの御理解じゃないけども苦しいです、けれども、有り難いですという事になってくる。
 その、アメリカの、ま、ここにこれから月に何回か日にちを決めて、英語を教えに来て下さるわけですが、その方が先だって、まあ、七時まで帰らやん用事があったという事だったんだそうですけども、その、やっぱ、日本語はぎこちないから先生方いうのは、こう何か、やっぱお互いに受け取りにくいけれども、英語の先生がどっかの高校の、安武先生のお友達と、安武先生とその方と三人で見えた、見えとったんですから、もう、その二人の先生方はペラペラ。だから、英語でいうたらもう、英語でお話をなさると、もう、いうならば、合楽理念の細かいところまで説明が出来るわけでてすね。安武先生あたりの場合。もう、驚いてしまわれたという感じですね。
 どういう事に驚かれたかというと、自分はいうなら、宗教するという事から、いろいろ人間の難儀という事を、やっぱ感じる事ですけれども、この、天地自然の中にですね、人間を苦しめようといったようなものがあるはずはないんだと、いうならば、因縁とか罪とか原罪とか、と、ね、輪廻とか、と、いう事で人間をしばってしまって苦しみの淵に立たしてしまうような事が疑問にであった。ところがその前に、いうなら、合楽のあの御本やら読み物を差し上げとった、そして合楽理念を読まれてから、ね、合楽理念に説くところのいうならば、あの、難儀観とでも申しましょうかね。
 というものは、天地自然はもう、それこそ千年万年かかっても、丸うせずにはおかんという働きだけしかないというような事が、わかられてもう、これは私が、いうなら探し求めておった信心はこれだなというふうに感じられたような感じです。
 私は、また聞きですからわかりませんけれども、だから、この合楽理念をどうでも英訳したい。そしてその米国の方達にでもわかってもらいたいというような、願いを立てられたような感じです。それに二人の、ま、先生方も一緒に協力して、どうでもその英訳の合楽理念を、まあ、書こうという事になったという事であります、ね。
 ですから、合楽理念にもとづくと、いうならば、人間が人間らしゅう生きながら、しかも喜びに喜んでという心が生まれてくる。いうならば、合楽理念によるところの見解というものが開けてくるわけです。見方というものが、ね。
 そこにはね、いうならば、それこそ、詫びれば許してやりたいのが親心といったような、その教えになってくるわけです。今迄、その為に自分が苦しむ、ね。例えば、先日の水子の供養の話なんか、ね、水子地蔵か何かの話なんかでも、ね、もう、それこそ、まあ、脅迫されるように、水子のたたりは恐ろしいですよと、まあ、いったような事を聞くと本当に恐ろしゅうなってきた、ね。
 それを、なら、合楽理念に基づいて解明して頂く時に、そこに安心が生まれてきた そこには、親も助かりゃ水子その霊も助かる事の出来れる手立てがですね、合楽理念には説いてある。だから、自分の心が真心になるという事。人間の頂とる本当の心になるという事。もって生まれる時に頂いてきておるその心になる事、ね。
 その心がいよいよ、なら、艱難汝を玉にする。めぐりそのものが、あなたの心をいよいよ生神へと精進させる、向かわせる手立てともなるという、ね。人間が人間らしゅう生きる。そんな事っちゃ罰かぶりゃせんやろかとか、そいが、又、めぐりを積む事になりだんせんじゃろかとかいったようなもんじゃなくて、ね、も、それこそ合掌して一切のものに御の字をつけて頂く、というような生き方がだんだん教えられるね 確かに、その英語の先生が、いわゆる宗教に関心を深く持っておられるから、はじめてそこにこう到達された。いわゆる、まあ、今日の御理解でいうと、こりゃ、心一つで人間は助かられるんだと、どんなに因縁があっても罪が深くても、ね、そんな事は問題にする事はいらんのだと、詫びる素直さ、と、ね。真心(まごころ)真心(しんじん)それに精進していく。これには、又、限りがないものであります、ね。
 わが心でわが身を救い助けるという事はそんな事だと思うんです。因縁が取れてしまわなければ、罪がなくなってしまわなければ助からん、というものじゃない、ね。 その気でおれば、ね。その身そのまま、即時に助かる事、心が開けば助かる事が出来れる私は教えだと思うです。
 教祖金光大神の教えというのは、ね、わが心でわが身を救い助けよ。それには信心する者は何事には真心になれよ。その真心とは人間のもって生まれた時に頂いておるいうならば、いわゆる心だという事です、ね。その心をいよいよ、ね。
 様々な難儀と思われておるような、いうなら、苦しい事に出合った時に、それがいよいよ、ね、艱難汝を玉にそる働きともなってまいりますから、難儀様のおかげでと御礼が言えれるようになる。だから、問題は心がです、その都度その都度に豊かに大きく、しかも、光が出るような受け方、頂き方。どげんして研くじゃろかと、研かな光は出らんわけなんだけれども、ね、もう、自然にいつの間にか心に光が頂けれるようなふうに、私は説いてあるのが合楽理念だと思うです。
 わが身はわが心で救い助けよ。自分の心が救い助けれれる、その心におかげは限りなく頂けれるのです。
    どうぞ。